杉原千畝出生地の教泉寺(美濃)
杉原千畝の生誕地の案内板の設置するために、岐阜県美濃市(旧上有知町)の教泉寺を訪れました。
教泉寺は、千畝が手記の草稿で「上有知町(今の美濃市)の仏教寺の刈間の税務官吏の家に生まれた」と書いた場所です。この記述は、後に「八百津町で生まれた」と改ざんされましたが、草稿では訂正箇所の下に残っています。
また、千畝の戸籍には出生欄に「武儀郡上有知町890番戸」と記載されており、これも教泉寺と一致します。教泉寺の南側に隣接する町には、千畝の名を冠した千畝町という地名もあります。
杉原千畝の出生地の教泉寺 旧美濃町 の住職を囲んで

教泉寺は少し高台にあり、当時は見晴らしがよく。千畝町も一望できたと思われる。千畝の名前の由来は千畝町の千畝です。

教泉寺にきて、千畝は教泉寺に生まれて慈悲の心をもったのかと、そんな想像も…
今回の教泉寺への訪問で住職様からも 生誕地案内板 の設置に前向きな返事がいただけたように思いました。
自治体や地方議員には様々なしがらみがあるようですが、市民で段取りできるところは市民で進めて、杉原千畝の功績と精神が、正しい歴史で世界と後世に引き継がれるようにしていきます。

徹底追及第6弾

杉原千畝の名前の由来
杉原の戸籍上の出生地は、当時の武儀郡上有知町890番戸である上有知町890番戸です。
この住所は、明治22年7月1日に町制施行により武儀郡上有知町2625-1-1となり、明治44年4月1日に名称改正により武儀郡美濃町2625-1-1となり、昭和29年4月1日に市制施行により美濃市2625-1-1(字名 古市場 通称 東市場町)となりました。
現在は浄土真宗本願寺派の教泉寺であります。
千畝橋

この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
岐阜バス バス停 美濃千畝町

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四男伸生さんは岸田文雄外務大臣と

杉原千畝の四男杉原伸生さんは8日、岸田文雄外務大臣とお会いになって、偽造の疑いのある手記についてもお話をされたそうです。
はやくこの問題が解決して、千畝の功績と精神が、正しい歴史で世界に広められ、次世代に語り継がれるようになることを望みます。
杉原千畝の功績や評価
杉原千畝は、1900年に教泉寺の借間で生まれた外交官です。彼はナチス・ドイツの迫害から逃れるためにやってきた約6000人のユダヤ人難民に独断でビザを発給して救ったことで知られています。彼は「東洋のシンドラー」とも呼ばれています。2000年には日本国政府から正式に名誉回復がなされました。
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