ロダンとミュシャの魅力に触れる! 静岡県立美術館で開催中の2つの展示

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8月15日に静岡県立美術館へ、ロダン館とミュシャ展を観にいってきロダンとミュシャの魅力に触れるました。

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トリコロールのカラーのカフェ Loulou et Minette
ルル エ ミネット

トリコロールのカラーのカフェ  2020年8月15日

静岡県立美術館の傍のトリコロール色のカフェ Loulou et Minette
ルルエミネットでかわいいフレンチトーストをいただきました。

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かわいいフレンチトースト

ロダン館とミュッシャ展を観に8月15日に静岡県立美術館 へ。
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静岡県立美術館では、2020年7月11日から9月6日まで「みんなのミュシャ展」を開催しています。

チェコ出身の画家アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)は、アール・ヌーヴォーの代表的な画家として知られています。 彼の作品は、華やかな色彩や緻密な装飾、美しい女性像などで親しまれています。

この展覧会では、ミュシャが手がけたポスター、装飾パネル、イラストレーション、写真など約200点が展示されています。 入場料は一般1,300円(1,100円)、高校生・大学生800円(600円)、中学生以下無料です()内は前売り料金です。

ミュシャ展では、彼がパリで活躍した時代から晩年までの作品が時系列に沿って展示されています。 パリでは、有名な女優サラ・ベルナールトと出会い、彼女のために数々のポスターや舞台装飾を制作しました。 その中でも特に有名なものが「ジスモンダ」や「ロレーヌ」などです。 これらのポスターは、サラ・ベルナールトの個性的な表情やポーズ、華麗な衣装や背景などが印象的です。 ミュシャはまた、自然や神話を題材にした装飾パネルも多く制作しました。 その中でも「四季」や「花」、「宝石」、「星座」などは、女性像と植物や動物、天体などが調和した美しい作品です。 ミュシャは晩年には故国チェコに帰り、スラブ民族の歴史や文化を描いた大作「スラヴ叙事詩」に取り組みました。 この展覧会では、その一部が写真パネルで紹介されています。

美術館の新館であるロダン館では、フランスの彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)の作品が展示されています。 ロダンは、19世紀を代表する彫刻家として、人間の感情や動きを表現した力強くリアルな作品を残しました。 代表作の一つである「地獄の門」は、ダンテの「神曲」に登場する地獄の光景を彫刻にしたものです。 この作品からは、「考える人」や「カレーの市民」などの有名な作品が生まれました。 ロダン館では、これらの作品をはじめとして、ロダンが制作した32点の彫刻が展示されています。 また、ロダン以前や以降の彫刻もあわせて展示されており、全部で51点の彫刻作品が一堂に鑑賞できます。

美術館の周辺には、日本平動物園や日本平展望台などの施設があります。 また、美術館内にはカフェやミュージアムショップもあります。 美術館へのアクセスは、JR静岡駅からバスで約30分です。 静岡駅北口バスターミナルから「日本平動物園行き」または「日本平行き」に乗り、「県立美術館入口」で下車します。 美術館までは徒歩約10分です。

静岡県立美術館では、ミュシャとロダンという二人の巨匠の作品に触れることができます。 ミュシャはアール・ヌーヴォーの華やかさと優美さを表現し、ロダンは近代彫刻の先駆者として人間性を追求しました。 それぞれの作品には、時代や国籍を超えた普遍的な美しさや感動があります。 ぜひこの機会に、静岡県立美術館でミュシャとロダンの魅力に触れてみてください。

榊原平 2020年8月15日

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ロダン館とミュシャ展 ロダンとミュシャの魅力に触れる!

ロダン館

オーギュスト・ロダン作 接吻 レプリカ 静岡県立美術館  2020年8月15日

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ロダンとは?

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(フランス語: François-Auguste-René Rodin、1840年11月12日 – 1917年11月17日)は、フランスの彫刻家。19世紀を代表する彫刻家とされ、『近代彫刻の父』と称される。代表作に『地獄の門』、その一部を抜き出した『考える人』など。

生涯
生い立ちと長い職人時代
パリ在住の労働者階級の子として生まれた。父ジョアン・バティスタは警察に雇われる事務員で、オーギュストは妻マリーとの間に生まれた2人目の子供だった。ロダンはエコール・デ・ボザールなどの美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、特に青年期以降はほとんど独学で彫刻を習得したことで知られている。

本人の談によれば、10歳の時に初めて絵を描いたことで美術に興味を持ち、14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)と呼ばれる工芸学校に入校した。子供達に絵画やデッサンを教えていたルコック・ボードランという教員はロダンを最初に評価した人物で、後年にロダンは感謝の言葉を残している[2]。17歳に工芸学校を退校するまで、ジュール・ダルー、アルフォンス・ルグロなど同年代に活躍する画家や彫刻家とも知り合っている。

プティット・エコールを退学した直後、ロダンは学業継続を望んでエコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願した。ロダンは同窓生をモデルにした塑像を提出したが、ボザールからの評価は不合格だった。諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続けたが、ボザールからは全く相手にされなかった。当時のボザールは技術的な要求水準がさほど高くなかったとされ[3]、数度にわたって入学を拒否されたことは非常に大きな挫折といえた。ロダンが入学を拒絶された理由は、ボザールでの新古典主義に基いた彫刻教育と異なる嗜好で作品を作っていたことも一因かもしれない。入校を諦めたロダンは室内装飾の職人として働きながら、次の道を模索していた。

1863年、ボザール入学を果たせなかったロダンに追い討ちをかけたのが姉マリアの死だった。ロダンを経済的に支えていた姉は、恋人との失恋劇で精神を病み、俗世を捨てて修道女になっていた。その姉が体調を崩して修道院で病没すると、姉の恋人を最初に紹介したロダンは激しい罪悪感に苦しんだという。姉の後を追うように修道院に入会したロダンは修道士見習いとして、美術から神学へと道を変えようとした。だがロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は彼が修道士に不向きだと判断して、美術の道を続けるように諭した。

修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であったアントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入りして、深い影響を受けた[4]。また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけているほか[5]、装飾職人としての労働も再開した。普仏戦争が勃発すると彼も徴兵対象となったが、近視であったことから兵役を免れた[6]。それでも戦争の影響で仕事が減って生活が苦しくなり、30歳までロダンは家族を養うだけの稼ぎを持てなかった[7]。職を求めて新天地に向かうことを決めたロダンは家族とベルギーへ移住して、そこで知り合いの紹介でブリュッセル証券取引所の建設作業に参加した。

ロダンは当初は仕事が終われば早々に切り上げてフランスに戻るつもりだったが、様々な理由から6年間滞在を続けた。ベルギー時代は彼の創作活動において重要であったと考えられている[7]。彼は装飾職人として独学で彫刻の技法を修練していたが、展覧会用の作品を作る余裕がなかったために、誰も彼が彫刻家としての夢を抱いていたことを知らなかった。1875年、職人の親方との関係が悪化したこともあり、ベルギー滞在中に生活費を節約して貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、念願のイタリア旅行へと出かけていった。そこで目の当たりにしたドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、多大な影響を両者から受けることになった[8]。

彼は「アカデミズムの呪縛は、ミケランジェロの作品を見た時に消え失せた」と語っている[9]。ベルギーに戻ったロダンは早速イタリア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。

彫刻家ロダン

『青銅時代』(但陽美術館)

この『青銅時代』はオーギュスト・ネイトという人物をモデルにした等身大の男性像で、極めて緻密でリアルな作品であった。ところがそのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられ、憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。型を取ったのではなかったと分かった審査員たちは、ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。

『地獄の門』(国立西洋美術館)

1880年、ロダンの元に、国立美術館を建てるので、そのモニュメントを作ってほしいとの依頼が来た。そのテーマとしてロダンが選んだのがダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土や水彩画などでデッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。

この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかった。ロダンはローズの元に逃げ帰り、ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごすことになる。

1888年、美術館の建設計画は白紙に戻り(予定地だった所には現在はオルセー美術館が建っている)、ロダンに『地獄の門』の製作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り、金を払って『地獄の門』を自らの物とし、制作を続けた。

ロダンにとって最早『地獄の門』とは単なる作品ではなく、『神曲』の中の物語でもなく、ほかならぬロダン自身のものとなっていたのである。

『考える人』(京都国立博物館)

『考える人』(静岡県立美術館 ロダン館)
そして1889年、『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」と名づけられていたが、発表するときは「詩人」と名づけられた。この像は誰を表しているのか、ダンテであるという説もあるが、ロダン自身であるという説もある。その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、その地獄の中にはカミーユ、ローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していた)の姿がある。なお『考える人』という名はこの像を鋳造したリュディエが付けたものである。

しずてつ(静岡鉄道)

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