グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて GG90/40 カナダ大使館

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グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて

10月4日はグレン・グールドの命日で、生誕90年、没後40年ということで、在日カナダ大使館で開催された「グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて」というイベントに招待され出席してきました。

榊原平 グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて
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榊原平 グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて
榊原平 グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて
榊原平 グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて
榊原平 グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて
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榊原平 グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて
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トリビュートとは?

トリビュート(英: tribute)とは「称賛・賛辞・貢物」といった意味であり、自分自身に大きく影響を与えたり、尊敬していたり、あこがれの存在であったりするアーティストに対して敬意を表すアルバムであることを示唆する呼称。

在日カナダ大使館での榊原平

グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて

第29代カナダ首相の肖像の前で榊原平

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在日カナダ大使館での榊原平
在日カナダ大使館での榊原平
在日カナダ大使館での榊原平

グレン・グールド

グレン・グールド Glenn Gould

グレン・ハーバート・グールドGlenn Herbert Gould1932年9月25日 – 1982年10月4日)は、カナダピアニスト作曲家

生涯

デビューまで

1932年9月25日、トロントに生まれる。旧姓名は、グレン・ゴールド(Glenn Gold)。プロテスタントの家系だが、ゴールドという苗字がユダヤ人に多く、当時高まっていた反ユダヤ主義に巻き込まれることを恐れて、グレンの生後まもなく一家はグールドと改姓した。母はノルウェーの作曲家グリーグの親類である。

母親は声楽の教師でピアノも弾き、父親は声楽同様ヴァイオリンの演奏ができた。母親からピアノの手ほどきを3歳から受けたのち、1940年に7歳にしてトロントの王立音楽院英語版)に合格。同院で、レオ・スミスより音楽理論を、フレデリック・シルヴェスターよりオルガンを、アルベルト・ゲレロよりピアノを習う。1944年、地元トロントでのピアノ演奏のコンペティションで優勝。1945年オルガン奏者としてデビュー。同年には、カナダ放送協会によりグールドのピアノ演奏が初のオンエア。1946年5月トロント交響楽団と共演しピアニストとしてベートーヴェン「ピアノ協奏曲第4番」で正式デビューし、同年10月、トロントの王立音楽院を最年少で最優秀の成績で卒業。その後、1947年に初リサイタルを行って国内での高い評価を得た。

ゴルトベルク変奏曲の衝撃

1955年1月2日、ワシントンで公演してアメリカでの初演奏を行い、ワシントン・ポスト誌に「いかなる時代にも彼のようなピアニストを知らない」と高い評価が掲載された。続く1月11日のニューヨークでの公演で、米国CBSのディレクター(d.オッペンハイマー)がグールドの演奏に惚れ込み、翌日終身録音契約が結ばれた。グールドは、プロデューサーなどの反対を押し切り、デビュー盤としてバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を録音。1956年に初のアルバムとして発表されるや、ルイ・アームストロングの新譜を抑えてチャート1位を獲得した。

同作は、ハロルド・C・ショーンバーグのような大御所批評家からも絶賛され、ヴォーグ誌やザ・ニューヨーカー誌といった高級誌もグールドを賞賛した。

その後、メディアは、そのアイドル的容貌と奇抜な性癖を喧伝し、グールドは一躍時の人となった[2]1957年には、ソビエト連邦およびヨーロッパへの演奏旅行に赴く。

第二次世界大戦以降、ソ連へ初めて演奏旅行に赴いた北米の音楽家となったグールドは、口コミで瞬く間に演奏会場が満員になり、「バッハの再来」と賞賛を浴びた。その演奏により、当時鉄のカーテンの向こう側と言われていたソ連と東欧諸国でもセンセーションを起こした。グールドは、演奏方法・解釈、新たな作曲家の認知など、その後のロシア音楽界に多大な影響を及ぼした。その衝撃・影響力・演奏の素晴らしさは、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチら当時の最高峰の音楽家達によっても証言されている。

その後、ヨーロッパでは、ヘルベルト・フォン・カラヤン、レオポルド・ストコフスキーらとも共演。1959年には、ザルツブルク音楽祭にも出演した。北米と異なり伝統的で保守的な風潮のあるこれらの国々でも大絶賛を受けたグールドは、世界的なピアニストとしての地位を確立した。

演奏会からの引退後

かねてより、演奏の一回性へ疑問を呈し、演奏者と聴衆の平等な関係に志向して、演奏会からの引退を宣言していたグールドは、1964年3月28日のシカゴ・リサイタル[3] を最後にコンサート活動からは一切手を引いた。これ以降、没年までレコード録音及びラジオ、テレビなどの放送媒体のみを音楽活動の場とする。同年には、トロント大学法学部より、名誉博士号を授与された。

1965年、カナダ北部のチャーチルまで旅行する。1967年カナダ放送協会(CBC)が、グールドの製作したラジオドキュメンタリー「北の理念(The Idea of North)」を放送する。その後も、「遅れてきた者たち」、「大地の静かな人々」といったラジオドキュメンタリーが放送された。1977年、グールド演奏によるバッハの「平均律」第2巻 前奏曲とフーガ第1番ハ長調の録音が、未知の地球外知的生命体への、人類の文化的傑作として宇宙船ボイジャー1号・2号にゴールデン・レコードとして搭載された。

1981年、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」を再録音する。1982年9月27日、脳卒中によりトロント総合病院に緊急入院。この後、容態は急速に悪化。10月4日、父親の判断により延命措置の停止が決断され、同日死亡。遺体はトロントにあるマウント・プレザント墓地に埋葬された。墓石にはゴルトベルク変奏曲の一節の楽譜が刻まれている。

バッハの偉大な演奏者

グールドは、一般的なクラシックのピアニストとは一風異なるレパートリーの持ち主であった。

バッハに対する傾倒

デビュー以来、グールドは活動の基盤をバッハにおいていた。その傾倒ぶりは、彼のバッハ作品の録音の多さはもとより、彼の著述からもうかがい知ることができる。グールドの興味の対象はバッハのフーガなどのポリフォニー音楽であった。バッハは当時でももはや時代の主流ではなくなりつつあったポリフォニーを死ぬ直前まで追究しつづけたが、そうした時代から隔絶されたバッハの芸術至上主義的な姿勢に共感し、自らを投影した。

グールドのデビュー当時、バッハの作品は禁欲的な音楽であると考えられていた。ヴィルトゥオーソ的な派手なパフォーマンスは求められず、エトヴィン・フィッシャーに代表される、精神性の高さを重視したピアノ演奏が支持されていた。また、19世紀末から始まったチェンバロ復興運動の流れから、その鍵盤曲はチェンバロによって演奏するのが正統であるとの考えが広まりつつあった。こういった事情により、ピアノに華やかさを求める演奏者・聴衆はバッハを避ける傾向にあったが、グールドは、デビュー作「ゴルトベルク変奏曲」の録音において、旧来のバッハ演奏とは異なる軽やかで躍動感あふれる演奏を、ピアノの豊かな音色と個性的な奏法により実現した。発表当時の評価は大きく分かれたが、その後、ピアニストに限らず多くの音楽家に与えたインパクトは甚大であった。

その後も、様々なバッハの鍵盤作品について大胆な再解釈を行い、バッハ演奏について多くの業績と録音を残した。こうして、グールドは、バッハ弾きの大家としての名声を不動のものとしていった。

古典派の軽重

バッハの演奏解釈が最初驚きをもって迎えられつつも、高い評価とともに後の演奏家に絶大な影響を及ぼすようになったのに対して、現在においても評価が分かれているのが、グールドの古典派作品の演奏である。

ロマン派への好悪

多くのピアニストが敬愛するショパンリストに対して否定的であり、録音も少ない。 しかし、グールド自身は、ロマン派の作曲家ごとにはっきりと好悪をつけ、自身が好む作曲家の作品を積極的に録音している。さらに、「どうしようもなく自分はロマン派だ」とまで言い切っている。

いわゆる前期ロマン派に関しては極端に否定的な見解を何度となく述べている。前期ロマン派の作曲家については正規録音としてはジュリアード弦楽四重奏団とのシューマンのピアノ四重奏曲op.47のみである[4]

それに対して新ドイツ楽派、後期ロマン派の作曲家については、グールドはリストを別にすればおおむね好意的な評価をしており、ブラームスの録音がある程度残されている他、特にワーグナーリヒャルト・シュトラウスシベリウスはグールドのお気に入りの作曲家であった。ただこの一群は主要といえるピアノ作品をほとんど残していないこともあり、グールドはワーグナーで行ったように自身でピアノ用に編曲して録音を残したり、そうでなければややマイナーといえる部類のピアノ曲を残すことになった。

新ウィーン楽派への評価

20世紀の音楽も積極的に取り上げたグールドであったが、特にシェーンベルクに対する評価は極めて高く、演奏頻度、著作などでの言及も多い。

斬新なピアニズム

グールドはピアノという楽器の中で完結するようなピアニズムを嫌悪し、「ピアニストではなく音楽家かピアノで表現する作曲家だ」と主張した。

対位法信仰

グールドは、ピアノはホモフォニーの楽器ではなく対位法的楽器であるという持論を持っており、ピアノ演奏においては対位法を重視した。事実、グールドのピアノ演奏は、各声部が明瞭で、一つ一つの音は明晰であり、多くはペダルをほとんど踏まない特徴的なノン・レガート奏法であった。また、多くのピアニストと異なり和声よりも対位法を重視し、音色の興味に訴えるよりも音楽の構造から生み出される美を問うたことから、ショパンではなくバッハを愛好し、その興味はカノンフーガにあって、その演奏の音色はほぼ単色でリズムを重視、その奏法は左手を伴奏として使う他の多くのピアニストと異なり、左手のみならず全ての指に独立性を持たせていた。この個性的な演奏法について、グールド自身は、オルガン奏法のリズムによる呼吸法やロザリン・テューレックの演奏の影響を受けていると語っており、その優れた指の独立については、グールドが左利きであったこととの関連性も指摘されている。 知的な音楽家といわれるグールドであるが、この対位法に対するこだわりについては頑迷であり、どのような音楽に対しても対位法を通してしかアプローチを行おうとしなかった。晩年にいたるほど、対位法信仰は深くなり、レパートリーの選択、楽曲の解釈、演奏時のテンポ、リズム、タッチ、装飾、ペダリング、録音方法にいたるまで、より対位法を際立たせる手法が用いられていった。また、グールドは、こういった自身の指向に合う音楽を作り出すために自身のスタインウェイ製のピアノに対してそのタッチを軽くするなどの改造をしていたこともあり、晩年にはヤマハのピアノも使用していた。

低い姿勢とハミング

グールドの使用した椅子

グールドは、異様に低い椅子(父親に依頼して作ってもらった特製の折りたたみ椅子で、いつもこれを持ち込んでいた。高さはおよそ30 cm。)に座り極端に猫背で前のめりの姿勢になり、時に大きな手振りでリズムを取るといった特異な奏法と斬新な演奏で世間の注目を集めた。グールドは、自身の奏法について、ほとんどの点において有利であるが、「本当のフォルテが出せない」と分析していた。演奏時にはスタジオ内録音の際でも常にメロディーや主題の一部を歌いながら演奏するため、一聴しただけでグールドの「鼻歌」が聞こえ、彼の演奏と分かることが多い。レコーディング・エンジニア等が再三注意し止めさせようとしたにも関わらず、グールドは黙ってピアノを弾くことはできないとして生涯そのスタイルを貫いた。しかしこの歌声によって現在弾いている曲の隠れた旋律や主題を分かりやすく聞くことができる。その点で指揮者ニコラウス・アーノンクールに類似するという指摘もある。また、歌っていることにより、旋律がなめらかに聞こえるという者もある。なお、猫背でかがみこむような奏法や指の独立には、その師であるゲレーロの「フィンガー・タッピング技法」の影響も指摘されている。

大胆な解釈

グールドは、作曲者のように演奏をしている。演奏にあたっては、楽譜が指定したテンポ、強弱、アーティキュレーション装飾記号などを勝手に変更したり、分散和音の一部を強調して繋いで新たな声部を作ったりした。また、和音を分散和音にしたり、当時のピアノ演奏の慣習になかった上方から下方へのアルペジオ、いわゆる逆アルペジオを大胆に使ったことでも有名であった。とりわけ、ゴルトベルク変奏曲の主題アリア第11小節の逆アルペジオは反響が大きく、その後、多くのピアニストが倣うようになった。モーツァルトの演奏においては、装飾記号の無視がはなはだしく、モーツァルトの装飾性を軽蔑していたという。さらに、グールドは、意図的に反復記号を無視して演奏するため、当時リヒテル等から批判されていた。

パルスの継続

グールドは、パルスの継続という独自の演奏法を志向した。ここでのパルスとは、リズムの一定の基準のことであり、パルスの継続とは、楽曲全体をこのパルスによって束ねたうえで、即興的あるいは感情的なリズムの変化やルバートを排することである。ただし、これはリズムの硬直化やアゴーギクの排除を意味するものではなく、基本的なパルスを設定して、それを分割したり、倍加させることは可能である。グールドは、リズムの硬直化に対して懸念さえ表明しており、この点においてロックミュージックやミニマリズムに対して否定的であった。さらに、一部の楽曲では各楽章を通して可能な限りテンポを統一しようとする試みも行っており(その一例が後述のバーンスタインと意見を異にしたブラームスの協奏曲1番である)、この点もまたパルスの継続への志向の一つと考えることもできよう。こういった演奏姿勢は、コンサートをドロップ・アウトしたことともあいまって、評論家の間では、伝統破壊であるとか、アンチ・ヴィルトオーソ的であるなどと評されたが、グールドの晩年には、パルスの継続への志向が功を奏し、音楽全体の統一感がより顕著になり高く評価されるようになった。

グレン・グールド・トリビュート

メディアが開く音楽の未来を信じて、コンサート活動を放棄し、録音に専念したカナダの天才ピアニスト、グレン・グールド(1932年9月25日-1982年10月4日)。彼の偉業を讃えるトリビュート・イベント「グレン・グールド・トリビュート」が、命日の10月4日にカナダ大使館のオスカー・ピーターソン シアターで開催されることが発表された。なお、このイベントは世界に向けて無料生配信される。 

2022年は、グールドの生誕90周年にして没後40年のメモリアル・イヤー。彼が50歳でこの世を去ってから40年が過ぎたが、残された数々の録音の評価はますます高まりつつある。特に日本での人気は根強く、グールドの正規録音の全作品がCD化され、著作集や伝記から彼を題材にした小説や戯曲まで、関連書が数十冊以上にわたり出版されている。また各種の映像番組や伝記映画も好評を博し、一般の音楽ファンにも親しまれるようになってきた。

『グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて』

日時: 2022年10月4日(火)午後7時から午後8時30分  
ゲスト:宮本笑里(ヴァイオリニスト)、熊本マリ(ピアニスト)、 
ヤマハ株式会社 前澤陽(AIピアノシステム開発者・“Dear Glenn”開発担当)、 
青山学院大学 宮澤淳一(教授、グールド研究者) 
言語:日本語、英語(逐次通訳あり) 
主催:カナダ大使館 
協力:株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ、ヤマハ株式会社 

To commemorate the 90th anniversary of the birth of Glenn Gould, the Embassy of Canada, in partnership with Sony Music Labels Inc. and Yamaha Corporation, will present an event featuring Emiri Miyamoto, Mari Kumamoto, and the AI piano system from the Dear Glenn project on Tuesday, October 4 from 19:00 to 20:30. 

・ソニー・ミュージック商品発売情報 

・“Dear Glenn” について 

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AIピアノ自動演奏 ヤマハ、4日夜披露

2022.10.4

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 ヤマハは、カナダ大使館で4日夜に開かれるピアニストのグレン・グールドの偉業をたたえるイベント「グレン・グールド・トリビュート 生誕90年、没後40年を迎えて」で、同社が開発した人工知能(AI)によるピアノ自動演奏を披露すると発表した。
 AIは100時間を超えるグールドの演奏をもとに学習した。未演奏曲を含む数曲をグールドらしい表現で演奏する。グールド研究者で青山学院大の宮沢淳一教授と、同社開発担当の前沢陽さんの対談も行う。イベントはユーチューブで生配信される。翌日から来年1月上旬まで、編集映像を公開予定という。

カナダ大使館と月

カナダ大使館と月
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参考

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