展覧会名 ヤン・レニツァ ―展 会場 ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg) 鑑賞日 2026年2月12日
銀座へ、巨匠の「線」を求めて
冬の寒さが残る銀座の夜、私は特別な興奮の中にいました。
新幹線を乗り継ぎ、たどり着いたのはギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)。目的は、ポーランド派ポスターの巨匠、ヤン・レニツァの劇的な表現に触れることです。
会場に足を踏み入れると、そこには強烈な色彩と、まるで生き物のようにうねる「線」の迷宮が広がっていました。
展示の白眉 世紀の傑作『ヴォツェック』と対峙する
展示のハイライトは何と言っても、1964年のオペラ『ヴォツェック』のポスターです。画面いっぱいに広がる「叫ぶ顔」。赤と青の同心円状の線が振動し、静止画であるはずのポスターから、主人公の狂気と絶望の叫びが「音」となって聞こえてくるような感覚に陥ります。

ポスターの裏側に潜む物語
今回の訪問で最も贅沢だったのは、ポズナン国立美術館の学芸員、アンナ・グラボフスカ=コンヴェント氏による特別レクチャーを拝聴できたことです。
アンナ氏は、レニツァがかつてヴァイオリンを修めていたことに触れ、また、建築学の背景がもたらす強固な構造、風刺画家として培った鋭いメタファー(隠喩)など、一枚のポスターの背後に積み重なった、巨匠の多才な人生の層を丁寧に紐解いてくれました。
表現の場が、ポスターからアニメーション、そして舞台美術へと次元を超えて拡張していく様子は、まさに「動くグラフィック」の革命を見ているようでした。

「脂の木曜日」とポンチキ、そして予期せぬ出会い
さらに今日2026年2月12日は、ポーランドの伝統行事「脂の木曜日(Tłusty Czwartek)」にあたります。会場では本場の揚げ菓子「ポンチキ」が振る舞われ、レニツァが愛した故郷の味を共有することができました。

講演録ヤン・レニツァ ― 劇場のポスター
2026年2月12日(木) 16:00 会場 DNP銀座ビル(ギンザ・グラフィック・ギャラリー) 講師 アンナ・グラボフスカ=コンヴェント 氏(ポズナン国立美術館ポスター&グラフィックデザインギャラリー部門学芸員)
1. 講師紹介
アンナ・グラボフスカ=コンヴェント(Anna Grabowska-Konwent)氏 ポーランドのポズナン国立美術館において、ポスターおよびグラフィックデザイン部門の責任者を務める。同美術館はヤン・レニツァの遺族から寄贈された膨大な作品(約1,500点)を収蔵しており、彼女はその保存と研究の第一人者である。
2. ヤン・レニツァ(Jan Lenica)とは何者か
レニツァを理解するための4つのキーワード。
① 「ポーランド派ポスター」の創始者
1950年代から60年代にかけて、ポーランドでは国家の検閲下でありながら、芸術家たちが独自の表現を追求した「ポーランド派ポスター」という運動が起きた。レニツァはその中心人物の一人である。彼はポスターを「単なる広告」ではなく、「個人の芸術的ステートメント(声明)」へと高めた。
② 映画・アニメーションとの融合
レニツァはポスター作家であると同時に、世界的なアニメーション映画監督でもあった。彼のポスターが持つ「物語性」や「今にも動き出しそうな不気味な生命感」は、映像表現と密接にリンクしている。
③ 独自の造形言語太い線と「切り絵」
彼のスタイルは、力強い太い輪軌線と、コラージュ(切り絵)的な手法が特徴である。これは、複雑な情報を極限まで削ぎ落とし、本質的な「形」を追求した結果である。
④ 「隠喩(メタファー)」の達人
レニツァは劇の内容をそのまま描くことはしない。劇の本質を一つの象徴的なイメージ(例えば、叫ぶ顔、絡み合う迷路、奇妙な生物など)に凝縮し、見る者に哲学的な問いを投げかける。
3. レクチャー本編劇場ポスターの解説
【作品解説オペラ『ヴォツェック(Wozzeck)』1964年】
- 特徴 赤と青の同心円状の線で描かれた「叫ぶ顔」。
- 意図 主人公の狂気と、内面から湧き上がる絶望的な叫びを視覚化した、レニツァの代表作。ポスター史に残る傑作とされる。

【劇場のポスターにおける自由度】
- アンナ氏の解説によれば、当時のポーランドにおいて「演劇」のポスターは、他の商業ポスター(製品広告など)に比べて自由な表現が許されていた。
- そのため、レニツァは演劇作品を通じて、自身の死生観や人間への洞察を深く掘り下げることができた。
4. 幼少期と形成期(講師解説より)
レニツァの独創性はどこから来たのか。アンナ氏は彼のルーツについて以下のように述べている。
- 芸術一家の環境(1928年ポズナン生まれ):
- 父アルフレッド・レニツァは、著名な前衛画家であった。父からの芸術的影響は計り知れず、幼い頃から抽象表現やシュルレアリスムに触める環境にあった。
- 音楽への素養(ヴァイオリンの学習)
- レニツァは1947年にポズナン音楽院でヴァイオリンを修めている。
- アンナ氏の指摘 彼のポスターに見られる「線のうねり」や「構図の調和」は、彼の音楽的背景から来る「リズム感」が視覚化されたものと言える。彼は「目で見る音楽」をポスターの中で奏でていた。
- 建築学の背景
- その後、ワルシャワ工科大学で建築を学んだ。この経験が、彼の作品に構造的な強固さと、空間に対する鋭い感覚を与えた。
5. 講師による特筆すべき発言(メモ欄)
- 「レニツァの作品は、見る人と作品の対話を求めている」
- 「彼のポスターには、常に裏側にある物語が潜んでいる」
- 「音楽を学んだことが, 彼の描く線の『動き』を決定づけた」
6. 地理的・文化的背景ポスナンとクラクフ
レクチャーで言及されるこれら二つの都市は、ポーランド芸術において極めて重要な意味を持つ。
- ポスナン(Poznań)
- レニツァの故郷 彼はここで生まれ、初期の芸術教育(音楽を含む)を受けた。
- 研究の拠点 講師のアンナ氏が所属する「ポズナン国立美術館」がある。ここにはレニツァの最大級のコレクションが収蔵されており、いわばレニツァ研究の「聖地」である。
- クラクフ(Kraków)
- 芸術の都 日本で言えば京都のような存在。中世の街並みが残り、ポーランド文化・芸術の精神的中心地である。
7. 両親(アルフレッドとマルヴィナ)との関係
アンナ氏による、レニツァを形作った家族についての補足。
- 父 アルフレッド・レニツァ(Alfred Lenica):
- ポーランド前衛芸術の重鎮。息子ヤンにとって、最初の、そして最大の師であった。父との芸術的な対話は、ヤンがパリやベルリンに移住した後も長く続いた。
- 母 マルヴィナ・レニツァ(Malwina Lenica)
- 家族を精神的に支えた存在。ヤンは母に対しても深い愛情と信頼を寄せていた。
- 「芸術家の一族」
- 妹のダヌータもまた、高名なイラストレーター・児童文学作家である。レニツァ家は一家全員が創造的な活動に従事していた。
8. 両親への手紙 内面を映し出す資料
アンナ氏は、レニツァが国外から両親へ宛てて書いた膨大な手紙についても触れている。
- 手紙の重要性 公的なインタビューでは決して語られない「芸術家の本音」が記されている。
- 主な内容 西側の華やかな芸術世界にいながら、常にポーランドの文化や家族を想っていた切実な思い、創作の苦悩、父への逐一の報告。
- 人間像 作品の「不気味さ」とは対照的に、手紙の中の彼は非常に繊細で、人間味に溢れる人物であった。
9. 1947年 ワルシャワ工科大学と時代の「るつぼ」
- ワルシャワ工科大学建築学科への入学 建築学的思考が、グラフィックにおける「空間構成」や「構造的強度」の基礎となった。
- 戦後ワルシャワという「るつぼ」 破壊と再建の只中にあったワルシャワの熱気が、若い芸術家たちを刺激した。
10. 風刺画家としての活動 表現の原点
- 週刊誌『シュピルキ(Szpilki / ピン)』への寄稿
- 社会の不正を刺す「ピン」の名を持つ雑誌で、文字を使わずに絵だけで語る「視覚的ユーモア」を磨いた。
- 「視覚的メタファー」の訓練 複雑な社会問題を一目でわかる鋭いイメージに凝縮する技法を習得。
- 検閲との知恵 暗喩的に真実を伝える手法を身につけた。
11. ドローイング:思想を運ぶ「線」の芸術
- 「線(Linia)」への執着 太く、迷いのない線は、それ自体が感情を持つ生き物のような存在。
- 即興性と完成度の同居 緻密な構成力と自由で即興的な筆致が、独自の緊張感を生む。
- アニメーションとの親和性 彼のドローイング一枚一枚が脈動し、動きを予感させる。
12. 社会主義リアリズムとの対峙 抑圧と脱却
- ソッツレアルの導入(1949年〜) 写実的・労働賛美を求める国家の強制に対し、レニツァは建築や風刺画の中に自身の本質を温存させた。
- 「直接言えないことを絵で語る」処世術 これが後の強烈な隠喩表現を生む原動力となった。
13. 1953年 スターリンの死と「解凍(Odwilż)」
- 表現の爆発 政治的緩和により、それまで禁じられていた抽象表現やシュルレアリスムが一気に開花した。
- スタイルの劇的進化 1953年以降、主観的で哲学的な深みを持つスタイルへと移行した。
14. 1963年 パリへの移住と国際的な飛躍
- 拠点の移動 1963年にパリへ移り、世界的な前衛芸術の潮流に合流した。
- ポーランド的アイデンティティ 西側の自由な空気の中でも、ポーランド特有の「不条理」や「実存的不安」を追求し続けた。
15. アルヌーヴォーとの呼応 現代的な「うねり」の再定義
- 伝統の再解釈 「若きポーランド(Młoda Polska)」の美学と共鳴。
- 内面的な叫び 装飾的だったアルヌーヴォーの線を、現代の孤独や不安を表現する武器へと変容させた。
16. 視覚的メタファーの極致 『翼のあるラクダ』
- 作品 オペラ『ファウスト』ポスター(1964年) 翼の生えたラクダという非実在の生物を通じ、人知を超えた魔術的な精神世界を視覚化した。
17. 映画ポスターへの展開 『恐怖の報酬』(1954年)
- 緊張の視覚化 出演俳優ではなく「恐怖という感情そのもの」を表現。心理的な重圧をグラフィック化した初期の重要作。
18. 映画『地下水道(Kanal / 地下通路)』 極限状態のグラフィック
- 絶望の視覚化 迷路のような閉塞的な構図で、下水道に閉じ込められた人々の息苦しさと歴史的トラウマを表現。
19. 映画『水の中のナイフ』 心理的緊張の抽象化
- ポランスキーとの仕事 3人の登場人物の間に流れる刺すような緊張感を、うねる線とナイフの形状で象徴的に描いた。
20. 世紀の傑作 オペラ『ヴォツェック(Wozzeck)』1964年
- 叫ぶ顔 赤と青の同心円状の線。音が聞こえてくるような共感覚的な効果を持ち、1966年国際ポスター・ビエンナーレで金賞を受賞。
21. アニメーション 動き出すグラフィックと思想
- 切り絵アニメーション ポスターの「コラージュ」技法を時間軸に展開。代表作『迷宮』では、文明への批判と孤独を描いた。
22. ヴァレリアン・ボロズィクとの共同作業
- アニメーションの革命 ボロズィクの質感とレニツァの構成力が融合し、ポーランド・アニメーションの黄金時代を築いた。
23. 1957年 映画『むかしむかし(Był sobie raz)』の衝撃
- コラージュの導入 既製品のイメージを切り貼りする技法で「脱・ディズニー」を宣言した画期的デビュー作。
24. イラストレーション テキストとイメージの交差点
- 解釈としてのイラスト 物語の説明ではなく、テキストの「核」をイメージ化。手書き文字も「音楽的な線」の一部とした。
25. 児童書の挿絵 詩的な想像力と遊び心
- 純粋な想像力 ポスターの毒とは対極にある、明るく鮮やかな色彩と遊び心にあふれた世界観。
26. 児童文学の金字塔 『ロコモティブ(機関車)』とキャラクター表現
- 『大きなかぶ』の「シャーのひげ」 灰色のひげ(Szara broda)のリズミカルな描写。機関車の煙のうねりにヴァイオリンのリズムが宿る。
27. 舞台美術 三次元に拡張されたグラフィック
- 建築的思考の結実 役者の動きを規定する構造体。衣装やセットをポスターのグラフィックと統一し、「総合芸術」を体現した。
28. 舞台『セツアンの善人』 二面性の視覚化
- 仮面の美学 善と悪が入れ替わる人間の不条理を、象徴的な装置と衣装で表現した。
29. 晩年の到達点 『リア王』と芸術の遺産
- 純粋な線への回帰 装飾を削ぎ落としたミニマルな舞台。人生の最後に到達した、妥協のないドローイングの精神。
30. 舞台の衣装デザイン 動くグラフィックとしての身体
- 歩くポスター 役者の体に直接「太い輪郭線」や「ハッチング」を描き込み、二次元と三次元を融合させた。
- 身体のリズム 音楽のリズムを布の揺れやシルエットで計算し、非人間的で象徴的な「動くメタファー」を作り上げた。
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