「明治用水と日本デンマーク」について学ぶ 2008年6月勉強会報告

神谷金衛 明治用水土地改良区 理事長

”明治用水と日本デンマーク” について学ぶ あんき会勉強会第2弾!!実施リポート
あんき会メンバー 榊原平 2008-06-13

概要

  • 開催日時:平成20年5月31日(土)9時~12時20分
  • 場所:明治用水会館:安城市大東町
  • 参加者(敬称略):あんき会:市民3名,職員1名とお子さん1名,都市造形研究所3名 当会以外:市民:ご夫婦2名,今井隆喜(安城市議会議員) 講師:神谷金衛(明治用水土地改良区理事長),竹内清晴(明治用水土地改良区総務部長) 参加人数(講師を含め) 13
「明治用水と日本デンマーク」について学ぶ
神谷金衛 明治用水土地改良区 理事長

明治用水と日本デンマーク

安城のまちづくりと繁栄の原点である明治用水と日本デンマークについて明治用水会館の神谷理事長,竹内総務部長からお話をうかがいました。

神谷金衛理事長の挨拶のあと,用意していただいたバスに乗って,篠目の「水の駅」 を見学し,竹内総務部長から明治用水が自治にあたえた影響についてご講義いただきました。

「富国の途は水利にあり」「疎通千里,利澤万世」(そつうせんり,りたく ばんせい)

松方正義内務卿(まつかたまさよし:明治政府高官で第4代総理大臣)が明治用水成業式に臨んで詠んだ句。

”明治用水と日本デンマーク” について学ぶ 勉強会
水の駅(安城市篠目町)

明治用水がなければ,安城は水のない荒れ野原だった。都築弥厚や石川喜平・ 伊豫田与八郎・岡本兵松らの先人達の先見の明と努力により,現在の三河の繁 栄がもたらされたといえる。

明治用水の建設資金は,官民共同の出資によるものであり,出資者の提供能 力に応じて自主的に集められた。

明治用水は,農業用水だけでなく,一部は上水道や工業用水にも使われている。

安城は,矢作川から大変な恩恵を受けている。なお,元来,「三河」とは, (みかわ)「美川」「御川」すなわち矢作川を意味する言葉であり,矢作川流域である現在の西三河だけを示す地域であったという。

「自分たちの地域は、自分たちでよくする」「共同する・助け合う意識」 「自分たちで考え努力する意識」
 明治用水ができて,安城の人々は,山崎延吉(農林学校校長)から「自分達 の地域は自分達でよくする」という思想教育をうけた。
明治用水は,単に農業用水を供給してきただけでなく,そこに住む住民の意識 までも変えていった。

「共同・助けあう意識」自分達で考え努力する意識」が培われ、多角系農業や産業組合(農協)といった日本デンマークを特長づけ る先進農業方式が生まれていった,また水管理組織が基となって町内会などの 自治組織がつくられていった。

こうした思想や意識は,農業だけでなく,更生病院建設や女学校設立や託児所の設置などの住民自身によるサービスの提供にもつながっていったと思われる。なお更生病院の「更生」とは「更に生きる」という願いをこめて山崎延吉が命名したという。

水の駅(安城市篠目町)
水の駅(安城市篠目町)


 さらにこうした思想や意識は,農家の次男坊,三男坊らがトヨタ関連企業などに勤めるようになって,企業活動の中に取り入れられ、現在の‘カイゼン’(=ボトムアップ活動。上からの命令で実行するのではなく作業者が自分で知恵を出して変えていく活動)に受け継がれ、今日の西三河地域での世界的な強い競争力の要因になったといわれる。

当日のスライドより


勉強会まとめ

明治用水開通によって安城で培われた「開拓者精神」「協働共栄」「自分たちで考え努力する意識」は、今日の三河地域の豊かさの基盤となったことは間違いないと思います。しかし,一方で、こうした思想は,現在では意識されなくなり、地域での繋がりも薄れつつあります。

 そこで今回の安城市自治基本条例制定を機会とし、これまで安城のまちをつくってきた自治の理念として条例の中に取り入れ、今後も絶えることのないよう後世に受け継いでいかなくてはいけないと,私は考えます。

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小布施町

小牧ICからクルマで出発して中央道、長野道、上信越道を通って小布施町に。長野県内は知事選真っ只中。盆地のため気温は高いが不快な湿度はない。 クルマを小布施町役場に駐車して、町長との面会時刻までの2時間を徒歩で町内を散策。小布施駅(長野電鉄)、商工会議所、高井鴻山(こうざん)記念館、北斎館、おぶせミュージアムを巡る。そして町役場に戻って市村良三氏(小布施町長)と1時間半の面談。その後、ア・ラ・小布施で関悦子氏(取締役事業部長)にお話を伺う。NPO法人しなのぐらしに宿泊し小渕登美子氏(同代表)と牧野富士男氏(小布施国際交流クラブ)にお話を伺う。

「観光地」ではなく美(び)日常なまちづくり

小布施は町民にとって「観光地」でない。訪れる人は「観光客」ではなく「来訪者」。町民は観光を「目的」にしてしまうのではなく、生活者(町民)の視点で考え、訪れた人をもてなし、町民自身も気持ちよく生活し、生活者が自主的に「美(び)日常」な生活文化を創造することを目指す。先日、財政破綻した夕張市では、本来は生活者のための手段であるはずの観光が目的となってしまい過剰なハコモノ投資がされたのとは対照的に感じられた。

小布施町 の活性化の要因と経緯

  1. 過疎化に対する危機感から宅地造成分譲を行う。約2000人の転入により町には多額の現金が入る。(昭和40年代)
  2.  「北斎館」建設(昭和51年)。宅地造成分譲で入ってきた資金を活用。もともと町には、江戸時代末に北斎が度々訪れていたため北斎の作品が散在していたが、それらの海外流出を心配した町が作品を集めて美術館を設立することに。「田んぼの中の美術館」であったが、北斎としては珍しい肉筆画などがあるということで話題になり来訪者が殺到する。来訪者が町内を回遊できるようにまち並みを整備することに。
  3. 来訪者が増加したことにより、地場農産物であった栗が、これまでの「出荷・卸し」の取引から「小売」が可能となる。品質の追求や販売管理の厳しさにさらされることになり経済・商業意識を高める転機に。
  4. 花のまちづくり(オープン・ガーデン等)は、竹下内閣時のふるさと創生1億円資金がきっかけ。資金の一部で数百人もの町民が西ヨーロッパ旅行に行くことに。旅行資金は20万円を町民に3年間融資する方式。町民らはイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツの都市の綺麗な街並みと制度・文化を知る。英国コッツウォルズなどで行われているオープン・ガーデンを小布施町でも始めるきっかけとなる。

町民意識に高井鴻山というシンボル

まちのキャッチフレーズに「北斎のまち」とあるが、まちの本当のシンボルは「高井鴻山」ではないかと。鴻山は幕末維新の激動期に生きた小布施の豪商で江戸や京都に遊学し幅広い教養を習得した文化人で、北斎を小布施に迎え入れて北斎のパトロンとなった。優れた「よそ者」を居住者として受け入れ、もてなし、活動を助け伸びあっていく町民の態度には鴻山の姿があると確信させられた。  ちなみにこの鴻山という人物は、豪商・文化人としての活動の一方で、倒幕の志士や思想家らとも交流し、自ら危険を冒して彼らを匿い維新を推し進めた。維新後は、新政府に対し上申書や建白書を連発するが、多くはなしのつぶてに終わってしまう。認められないという不満から妖怪の絵を書くようになってしまったらしい。政策提言を行う一新塾生の中には、こういう鴻山の生き方に共感できる人が多いのではないだろうか。

●町民は文化好き

鴻山の文化奨励と後援の精神が町民の意識にもあり、町民らは文化活動にとても熱心。わずか4キロ四方の町内には13もの美術館(大半が財団か民間で独立採算)があり、また毎週のように、国際音楽祭・野外コンサート等の演奏会や演劇祭等なにかしらの行事が開催される。実際、小布施町でお話をしたすべての人がなにかの文化活動の主催をされていた。現町長市村氏も大変な演劇好きらしい。

●町の今後の課題

  1. 教育・福祉を充実し「住みたい町おぶせ」を創る 
  2. 「小布施ブランド」の確立(農産物など)
  3. 企業誘致。単に誘致するのではなく、企業の方にも「小布施ブランド」のメリットが活かされるようであってほしい。今後その具体的なアイデアがあれば提案してほしいとのこと。(しかし町にぴったり合う企業イメージはすぐに思い浮かばなかった。のんびりとした生活文化と自立したイメージなのだろうが。)