五月晴れの中、在原寺”一人茶会”へ 牛田名物の大豆煎茶屋など 知立市八橋 5日

在原寺一人茶会へ 五月晴れの2022年5月5日 知立市八橋 大型連休であり、二十四節句では立夏、子供の日でもある2022年5月5日、五月晴れの中、愛知県知立市の八橋在原寺で行われた在原会 第十二回 一人茶会へ行ってきました。お茶とお菓子を楽しみました。

五月晴れの中、第12回一人茶会 八橋 在原寺へ

大型連休であり、二十四節季では立夏、また端午の節句でもある2022年5月5日、五月晴れの中、愛知県知立市の八橋在原寺で行われた在原会 第十二回 一人茶会へ行ってきました。お茶とお菓子を楽しみました。

知立市八橋 在原寺へ 五月晴れの中

五月晴れの中、

八橋 在原寺 かきつばた

かきつばた 第12回一人茶会 八橋 在原寺へ

在原寺の境内の中にある在原業平像

在原寺の境内の中にある在原業平像

在原 業平とは?

在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期から前期にかけての貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。

一席目 野点 お抹茶とお菓子

いちご大福とお抹茶 在原寺 愛知県知立市八橋
いちご大福とお抹茶 在原寺 愛知県知立市八橋

1席目は、お抹茶とふわふわな衣のいちご大福でした。

いちご大福とお抹茶 在原寺 愛知県知立市八橋

煎茶と手毬のお饅頭

煎茶と手毬のお饅頭 在原寺 愛知県知立市八橋

境内の一席は、煎茶と手毬のお菓子でした。

煎茶と手毬のお饅頭 在原寺 愛知県知立市八橋
煎茶と手毬のお饅頭 在原寺 愛知県知立市八橋
煎茶と手毬のお饅頭 在原寺 愛知県知立市八橋

三日月の和菓子

三日月の和菓子 在原寺 愛知県知立市八橋
三日月の和菓子
三日月の和菓子

境内での一席:フォートナム&メイソンの紅茶とシフォンケーキを

境内で紅茶とシフォンケーキ 第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年
境内で紅茶とシフォンケーキ 第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年

【Fortnum & Maison】フォートナム&メイソン/Afternoon Blend Loose Leaf Tea Decorative Caddy

【Fortnum & Maison】 フォートナム&メイソン/Afternoon Blend Loose Leaf Tea Decorative Caddy 境内で紅茶とシフォンケーキ 第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年
在原寺の境内の中にある在原業平像
在原寺の境内

大村秀章 愛知県知事も

大村秀章 愛知県知事

野点 煎茶とお漬物

第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年
茶釜とかきつばたと竹の花器 第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年
茶釜とかきつばたと竹の花器 第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年

野点

第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年

江戸時代の東海道の牛田名物の大豆煎茶屋(まめいりちゃや)を再現 黒豆とハゼの甘露煮

猿猴庵の東街便覧図略 牛田の大豆煎茶屋(まめいりちゃや)

尾張藩士猿猴庵の東街便覧図略に描かれた東海道の牛田の大豆煎茶屋(まめいりちゃや)を再現した、黒豆とハゼの甘露煮、揉んでいない茶葉🍃のお茶を自分で茶筅で立てるとってもプリミティブなお茶。東海道の牛田では大豆やはぜを茶請けに、旅人が小腹を満たしたそうです。

黒豆とハゼの甘露煮 
猿猴庵の東街便覧図略 牛田の大豆煎茶屋(まめいりちゃや)を再現

猿猴庵が東街便覧図略で描いた東海道の牛田名物

猿猴庵の本 東街便覧図略 巻一 名古屋市博物館 刊行年2001
猿猴庵の本 東街便覧図略 巻一 名古屋市博物館 刊行年2001

野点 小松屋本家の大あんまき

五月晴れの中、
小松屋本家の大あんまき 第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年

五月五日在原会

第12回一人茶会 八橋 在原寺へ 5月5日, 2022年

参考

八橋 売茶翁(やつはし ばいさおう)とは?

八橋 売茶翁(やつはし ばいさおう、1710年(宝暦10年) – 1828年3月20日(文政11年2月5日))は、江戸時代の臨済宗の僧、茶人で、八橋売茶翁は号である。二代目売茶翁と呼ばれ、煎茶道「売茶流」の流祖。江戸で茶人としての生活を約9年続けた後、46歳の折に江戸を出奔、三河国池鯉鮒宿近くの八橋にある在原寺に入って、無住だった寺を再興する。続いて無量寿寺の再興を依頼された売茶翁は、その寄進を募るため各地に赴いた。この時期には売茶翁の名声を頼って無量寿寺に来訪する客もおり、その一人だった紀州藩主の徳川治宝は売茶翁を和歌山に招いた。文政11年2月5日(1828年3月20日)、無量寿寺で死去した。

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